- 杉原 里志
ノーリスクの正論は、組織にとって「ノイズ」である。
途中で組織を抜けた人が、あとになって外野から「いいこと」を言う。
その指摘が、案外ビジネスの核心を突いていたりするから厄介です。
「確かに、その通りだ」「そうすべきだった」と、残された人間は一瞬、思考を止めそうになる。
だが、ここで線を引かなければならない。 この二者を同じ土俵で扱えば、組織というシステムは確実に壊れます。
なぜ、辞めた人の言葉は、どんなに論理的に正しくても「軽い」のか。
理由はシンプルだ。その人がダメな人間だからではありません。
「リスク」という対価を支払っていないからである。
組織に残った人間は、正解かどうかも分からない不完全な情報の中で、調整し、謝罪し、決断している。
彼らは常に「失敗したら責任を取る」というリスクを背負って前に進んでいる。
一方、途中で降りた人間は、そのリスクから解放されています。
リスクのない場所から放たれた言葉は、どれほど鋭くても「意見(感想)」に過ぎなのです。
対して、リスクを背負った人間が発する言葉だけが「決断」と呼ばれる。
ビジネスの世界では、意見と決断のレートは等価ではありません。
残された人間が感じるイラ立ち。 「正論なら、現場にいた時に言えよ」「きれいな言葉だけ置いていくな」。
これは感情論ではない。コストを負担し続けている人間だけが持つ、正当な「経済的違和感」です。
もちろん、外野からの景色はクリアだ。 現場のしがらみ(ノイズ)がない分、組織の欠陥がよく見える。
だから、その指摘は論理的には「正しい」ことが多い。
だが、その正しさに価値があるかといえば、話は別なのです。
正論は、誰が言うかで価値が決まるのではない。
「どこで」言うかで決まるのだ。
安全圏からの正論は、現場を動かす駆動力にはなり得ません。
なぜなら、その正論に従って失敗したとき、その発言者は1ミリも痛手を負わないからだ。
損失を共有しないアドバイスは、無責任なコンサルティングと同じで、百害あって一利なしである。
私がいつも思うのは、本当に評価されるべきは「正解を言った人」ではないということ。
評価されるべきは、「不完全な状況下で、リスクを引き受けた人」なのです。
完璧な正論など、結果が出たあとにならAIでも言える。
だが、泥をかぶり、批判を浴びながら、不確実な未来を選択する。
その行為だけが、人を動かし、現実を変える力を持つ。
もし、途中で投げ出した人間に役割が残っているとすれば、ひとつしかありません。
もう一度、責任というリングの中に上がってくること。外から石を投げるのではなく、中で血を流す。
自分の言葉を、自分の体重(リスク)で支える。 それができて初めて、その言葉は組織の中で通貨として流通する。
そして、これは他人事ではありません。 自分自身への問いでもあります。
「私は今、正論を吐こうとした瞬間、リスクの側に立っているだろうか」
「その言葉の結果を、最後まで引き受ける覚悟があるだろうか」
この問いを自分に向け続けられる人間だけが、組織の中で信頼を勝ち取れるのです。
リスクを取らない正論は、ただの雑音だ。
私は、そう定義しています。
