- 杉原 里志
DXという名の「寒波」と、泥のなかの小さな灯り
「DX」という言葉を口にしたとたん、 会議室の温度が一度、すっと下がる。 そんな気がします。
私は、言葉には体温があると思っています。 熱を帯びた言葉もあれば、 触れた瞬間にひやりとする言葉もある。
どうやら「DX」という言葉は、 現場の人たちにとって、ずいぶん冷たい手触りをしているようです。
否定もされない。 かといって、期待もされない。
ただ、少し目線を落として、 「ああ、また始まったな」という顔をされる。
私はその表情を、もう何度も見てきました。
それは、自分たちの着ている服が体に合っていないとわかっていながら、 無理やり別の派手な服を着せられようとしている人の顔です。
「その服、似合うよ。すごくいい」と 周りからいくら褒められても、 本人にとってしっくりこない服は、落ち着かない。
ときに、つらくも、恥ずかしくもなります。
経営者が持ってくる「DX」という新品の服は、 現場の彼らにとって、 まさに「似合うと言われるけれど、気分の悪い服」 なのかもしれません。
人間は、言葉を操る動物ではなく、 言葉によって操られる動物だと言われます。
「DX推進」 「変革」 「イノベーション」
勇ましい言葉が飛び交うたびに、 その響きに酔っているのは、 言葉を発している経営者や推進室の人たちだけ、 という場面を、私は何度も見てきました。
言葉が大きすぎて、 現場の「泥臭い」日常を覆い隠してしまうのです。
現場の人たちが毎日向き合っているのは、 変革の物語などではありません。
誰かのハンコを待って止まる時間。 右の資料から左のシステムへ、 同じ数字を何度も打ち直す手間。 誰の責任かわからないまま起きるトラブル。 確認のためだけに開かれる会議。
そういう、手垢のついた、 でも切実な「詰まり」です。
そこが何も変わらないまま、 頭上を通り過ぎていく「DX」というスローガンは、 現場にとって 「仕事が増える前触れ」でしかありません。
寒波、です。
だから私は最近、 あえて「DX」という言葉を使いません。 「IT活用」とも言いません。
「ここ、この入力。面倒じゃないですか?」 ただ、それだけを聞きます。
いきなり全部を変えようとしない。 大きな予算も取らない。
まずは一箇所。 たった一つの「面倒くさい」を、ほどいてみる。
そこが本当にラクになるかどうか。 そこだけを見る。
このやり方は、派手ではありません。 セミナー映えもしないし、 「成功事例」として語りにくい。
でも、現場は正直です。
「あれ? 前よりラクじゃない?」
その、ふと漏れる一言。 その安堵のため息こそが、 本当の成果なのだと思います。
本来、DXというのは、 「やろう」としてやるものではない気がします。
経営が悩み、 現場が迷い、 泥の中を這うように考え抜いた末に、 「もう、こうするしかないね」 と構造を変えた。
その結果、仕事の流れが変わり、 判断が早くなり、 ムダが減る。
少しだけ視界が開けた。 その風景に、あとから名前をつけるとしたら。 それが、DXなのかもしれません。
青春が終わったあとに、 「あれが青春だった」と気づくのに、 少し似ています。
渦中にいるときは、 必死で、泥臭くて、 カッコ悪いことばかりです。
でも、通り過ぎて振り返ると、 そこには一つの文脈が残っている。
会社の歴史とは、 単なる時間の経過ではなく、 そうした思考と判断の道筋なのだと思います。
だから私は、DXを支援しようとは思いません。
支援しているのは、 目の前の「詰まり」を抜くこと。
ITは、そのための道具にすぎない。 主役ではありません。
小さく始めるのは、弱気だからではない。 どこに答えがあるかわからないから、 小さな石を投げてみるだけです。
波紋が広がれば、 そこが、今の正解。
人間は、 合理的な「正解」だけでは動きません。
仕事のやり方もまた、 自分たちのリズムで掴み取ったものでなければ、 定着しないのです。
DXという言葉が、 どうでもよくなってきた今だからこそ。
静かに。 小さく。 現場の呼吸に合わせて。
私は今日も、 「DXではないIT活用」を続けています。
冷えた会議室の空気を、 ほんの少しだけ、温めるために。